遠い背中



 ふうわりと、体が揺れる。
 どこからともなく聞こえてくるのは、既に耳に染みついた明則さんの音だった。
 姿が見えないのに、この音が明則さんによって紡がれていると私は知っている。
 眼を開き、映った青空の先へと進む。
 音の聞こえる方へ、腰を超える雑草が行く手を阻んでいてもなにも怖くない。
 雑草はまとわりつきはするものの、足を引っ張るものも絡まるものもいない。
 むしろ道を開けてくれているようだった。
 導かれるように、音へと吸い寄せられていく。
 気がつけば雑草はなくなって、草原が広がっていた。
 ぽつんと真中に見える黒い点。
 たぶん、ピアノ。
 音はずっと紡がれ続けていて、近づいているからどんどん大きくなっていく。
 蚊がなくような音が、今やはっきりと耳に届く。
 私は走った。
 びしゃりと、時折湿った所も通ったけれど、白い服に泥が跳ねるのも気にせずに走った。
 走って走って。
 息が苦しくなっても、足がもつれても、止まらずに走った。
 ぐんぐんと近づいてくるグランドピアノが嬉しくて、聞こえてくる音に会いたくて。

「明則さん」

 無心で弾くその人に呼び掛ける。
 ぴたりと音が止んだ。
「明則さん」
 背は向けないで。
 そう願うように名前を呼んだ。
 呼んでいるから、振り向いて。
 背を向けてしまわないで。
 その人はゆっくりと顔を上げ、そして私を見た。
「明則さんっ!」
 嬉しくて駆けだした。
 ちょっとの距離、けれど背を見ないと分かったなら怖がる必要はなかった。
 おいていかないで。
 はなさないで。
 こっちを見て。
 どれだけ願っただろう。
 私だけを見てくれる人を。

 明則さんの胸に飛び込み、その顔を見上げる。
 逆光で良く見えないその顔を見ようとしたとき意識が急に浮上した。



「杏子、着いたぞ」
 肩をゆすられていたらしい。
 車の揺れはもう止まっていて、どうやら駐車場に着いたらしかった。
「よく眠ってたな」
「おいしいお料理たべておなかが満たされてたから」
 自分でも言い訳みたいだと思いつつも言わずにはいられない。
 苦笑する明則さんとともに車を降りて部屋へ向かう。
「まぁイルミネーションは行きに見たしな」
 相変わらず光っていたと、エレヴェーターに乗り込みながらいう明則さん。
 エレヴェーターは止まることなくついて、そのまま家へ入る。
 冷たい空気に満たされたリビングのソファに座った。
「コート、皺になるぞ」
 自分のコートをハンガーに通しながらそう言う明則さんに、無言でコートを手渡したらなんだかんだと言いつつも綺麗に掛けてくれた。
「とりあえず暖房つけるぞ」
「うん」
 それじゃぁ私はお湯を沸かそうと、台所へ行って水を薬缶に汲んだ。
「カモミール」
 ソファへ戻った明則さんがそういうのが聞こえたため、カモミールの茶葉を用意した。
 お湯が沸くまで、暖房が効く所にいなければ手がかじかみそうだったため、いったんリビングへ引き返す。
「ホワイトクリスマスにはならなかったな」
「これで雪なんか降られたら寒いってもんじゃないから、降らなくて正解」
「およそ女子高校生のセリフじゃないなぁ」
「明則さんこそ、男の人の方がそう言うの興味なさそう」
 俺のはお袋のせいだ、と開き直った明則さんの膝を叩いて、お湯を取りに行く。
 教えられた通りに、どうにか紅茶を入れてリビングへと運んでいく。
「自分でいれたらいいのに」
「お前にいれてもらうから、いいんだよ」
 そんな風にたまに明則さんはさらりと恥ずかしいことを言う。
 ここ数日で慣れたようでいたけれど、まだ慣れ足りないのか紅くなっただろう頬を隠せない。
「言われ慣れてないのがわかっていいな」
「そのうち慣れるから、ほっといて」
「それはそれで、寂しいかもしれん」
 ばかみたいな話をして、まったりと過ごす。
 テレビも、音楽もかかってないただ二人だけの声がする部屋の中、注がれる紅茶の音と、窓を鳴らす風の音。
「さっき、どんな夢見てたんだ?」
「夢?」
 車で寝た時の事だ、と言われておぼろげに音が耳へ蘇った。
「明則さんの、ピアノが聞こえる夢」
「あぁ」
 なんだかとても納得している明則さんに、私は納得行かなくて、詰め寄るとどうやら寝言を言っていたそうだ。
「俺の名前呼ぶから、なんだったんだろうなって」
 ふつうは気になるだろう、と言われてそうかもしれないとだけ返した。
 でもだんだん、夢の出来事を思い出してきて急に不安になる。
「ねぇ」
 今、確かめればいいのだ。
 夢なんてあやふやなものを信じないで、今となりに座るこの人の言葉を聞けばいい。
「なんだ?」
「明則さんは、どこかへいかないよね」
「は?」
「私を無視して、置いていったりしないよね」
「するわけないだろ」
 しっかりとした返事が返ってきたのは即答に近い速さで、胸をなでおろす。
 これが真実だ。
 明則さんは、いなくなったりしない。
 私を無視してどこかへいってしまったりしないのだ。
 背を向けることは、ない。
「お前こそ、一人でいくなよ」
 黙っておいていかれるのはつらいんだ、と呟いた明則さんに、もしかしこの人も昔大切な人に置いて行かれた記憶があるのかもしれないと漠然と思った。
「いかないよ」
 だって、夫婦になったんでしょ?私たち。
 ちゃんと隣を歩くよ。一緒に進んでいきたいから。
 苦しいことがあったら、寄り掛かったり半分こしたりして、二人でどうにか前に前に進んでいきたい。
「クリスマス、ね」
 カモミールティーがなくなるころ、明則さんはそう言って立ちあがった。
「よっし、今日は一緒に寝るか」
「は!?」
 何を言っているのだとか、いきなりわけがわからないだとか、とりあえず言いたいことは一杯あったのに、何も口にできず、浴槽へ押し籠められてしまう。
「風呂はさすがに乗り込まないから安心しろ」
 そう言われたって、何が何だか分からない。
 とりあえず言われるがままにお風呂に入りでると、入れ違いで明則さんがお風呂へと向かった。
 頭は以前混乱したまま、ソファに座ってぼんやり髪の毛を吹いていると、いつのま間にか、風呂上りの明則さんに、ドライヤーをかけてもらっていた。
「カラスの行水」
「いや、いつもどおりに入ったけど」
 私がどうやらぼんやりしすぎていたらしい。
「大丈夫、なんもしない」
 あんまりにも動揺している私を見かねた明則さんがそう言うけれど、同じベッドというのがそもそも恥ずかしいのだ。
 高校生の羞恥なんて、明則さんは忘れているに違いない。
 けれど、なんだかんだと流されて気付けば明則さんの部屋にいて、ベッドに入っていた。
 二人はいってもベッドは狭くなくて、けれど寒いといって明則さんの腕に囲われた。
「お前体温高いの?」
「べつに普通」
 そ、俺冷え症なんだよ。なんて会話をしながらお休みを言った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 あんなに緊張したのに、そばにある温もりはとても穏やかで心地よくて。
 あっという間に眠気がやってくる。

 向かい合って、おやすみなさい。
 起きた時、その背であっても見えていたらいいと思った。
 こんな近くだったら、きっと掴める。
 この人は、私に背を向けておいていったりはしない。
 もう、去っていく背中に怯える必要はないのだ。



 でも、もし起きてみるのが背中じゃなかったら……





「おはよう」
「おはよ」
 私がちょっとだけ泣きそうだったことに気づかれていなくてホッとした。
 嬉しくて泣きそうになるなんて、柄じゃないから。










FIN



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