遠い背中



 ――あぁ、きっと。私がどれだけ追いかけてもあの背中にたどり着く事はない。

 空気を振動させて伝わって行く音。
 彼が触れた鍵盤が弦へと触れて、弦が震え空気に伝わり、その空気の振動を私の耳が捉える。私と彼がとても薄い関係で繋がっている証がこの音に他ならないのではないか、とそう思う。
 最後の音の余韻を決して逃がさないよう集中していた私のことなんて全然気にかけてくれない先生は、余韻がちょっとだけ残ってるというのに言葉で上塗りしてしまった。
「広瀬、さっさと帰れよな。お前」
「……信じらんない」
 先生の声もキライじゃない。キライじゃないけどそれよりももっと先生が紡ぐその音が好きなのに。なんて事をしてくれたんだと睨みつけたのだけれど、素知らぬ顔でさっさと帰れと言わんばかりに手を振られた。まるで犬猫を追い払うようなその仕草にむっとする。
「ほら、2曲聴いたら帰る約束だろ」
 もう日も暮れるから、暗くなる前にさっさと帰ってしまえと、こんな時ばかりちゃんとした先生みたいなことを言う。
 いつもむしろ先生達に叱られているのは、先生の方なのに。
 当たり前の生徒扱いが、子ども扱いに感じられて腹が立つ。
「じゃあね、たっちゃん先生」
 革の学生鞄をがっしりつかんで、音楽室を出る際に嫌味のようにそれだけ叫んで扉を閉めた。
 平明則、年齢は知らないけれど25歳くらいに見える。若くて先生自身があまり先生らしからぬ態度の人だから、親しみを込めてたっちゃんと呼ばれている。本人は言われるたびに嫌そうな顔をするけど、言っている人を叱った事もないから、嫌々ながら黙認しているのだろう。
 見た目はきっといい男の分類に入ると思う。同級生の男子達と比べたらダメなのだろうけど、先生はすごくかっこいい。きりっとしていて身体もそんなに細くなくて、けれどやはり陽に当たるようなスポーツはあまりしないのか、肌が白くてそうしてとても繊細な音でピアノを弾く。
 私は別にピアノのなにが分かるわけでもないし、猫踏んじゃったすらも引けなくて、クラシックなんて音楽の授業でかかったらのならば、あまりの心地よさにゆるりと眠気に襲われるような人間だ。
 だから、先生が上手いとかプロ級だとか、そんな事は全然分からない。
 ただ、あの音が心地よいから、聞いていたくなるから。
 それだけの理由で、毎週金曜日の放課後に音楽室へ通っている。

 玄関灯の点いている我が家へと帰る。
「そろそろ暗くなるんだから、さっさと帰って来いよ」
 ひんやりと冬のにおいを感じる空気の中、一人先生の音だけを思い出しながら歩きかえってきた後の兄の声。まるでここからが現実の入り口とでも言うように、玄関を開けた瞬間に横たわる現実。
 声がキッチンから聞こえてきたことから、兄がお玉片手に料理中をしている様が容易に想像できる。
 我が家の母は忙しく、長兄が私を育てた同然だ。だからであろうか、私が高校に入ってからさらに口うるさくなった。
「あ〜。新しいコートほしい」
「もうちょっとしたら小遣いやるから我慢しろ」
 自室で着替えてダイニングテーブルにぐったり座って呟けば、綺麗に盛り付けられた皿を持った兄が邪魔だとやってきた。
「前借は〜?」
「なしだ」
 兄は妹にあまいけど、お金は厳しい。相変わらずしっかりした金銭感覚だ。
 言っても無駄なことはさっさと切り上げるに限る。ぼーっと机に座っていればどんどん料理が並んでいって、ずい、と茶碗を突きつけられた。
 エプロンを外しながら目の前に兄が座る。こうしてみると、兄もまぁまぁ男前だなぁと思う。兄は母親に似たのだ。こういうのはなんだが、母は美人である。
「兄貴結婚しないの?」
 もそもそと絶品御飯を食べながらなにげなくふってみる。
「お前が嫁にいくのを見届けてからな」
「そんなんまってたら兄貴おじさんになっちゃうじゃん」
 彼女さんに悪い、といってみるのだけれども断固として兄が首を縦に振った事がない。
 レストランでバイトする傍ら猛勉強をして調理師免許を取った兄には、きちんとした恋人が居る。
 私が知っているだけでも付き合いは5年になるだろう。
 どうやって知り合ったのかは知らないけれど、彼女さんはとても良い人だし、兄だって真面目な態度と腕を買われて有名店のキッチンを任されている。条件はあるはずなのにどうして。と思い発破を掛けるのに兄は全然乗り気でない。
 私のせいで結婚しないのだろうか、と邪推をしてしまってもおかしくはない状況。
「でも兄貴私が彼氏連れて着たら玄関先で追い返すでしょ」
 ひさしぶりの食卓に会話も弾む。いつも兄のつくる料理をたべてはいるけれど、一緒に食べるのは兄が休みの時だけだ。
 なんだかんだ口うるさい兄だけれども、嫌いではない。
 なにしろ、この兄が居なければ私はこの無駄に広く豪華な家で一人ぼっちになってしまうのだから。
 そもそも調理師免許をとった後、バイト先の店長の知り合いが新店を出すから来ないかと正式に誘ってくれたというのに、蹴ろうとしていたのだ。
 理由は簡単、私が家で一人になってしまうから。
 私も高校生になるのだから、きちんと働いてさっさと彼女さんに楽をさせてやれと、喧嘩を重ねてやっと了承してくれたという経緯がある。
 とりあえず、兄は頑固なのだ。頑固でしっかりしているから、性質が悪い。文句が言えないのだ。そつなく物事をこなしているし、頑固なことにも大概理由がある。その理由はだいたい私であるから、さらに何も言えなくなる。
 そもそも兄だとて30歳が間近であったはず。彼女さんだってそろそろ結婚しようとか、言い出さないのだろうか。あまり年は離れていないはずだし、どちらも結婚適齢期とやらに入ると思うだのけれども。
「私が結婚しないとか言ったら兄貴ど〜すんの」
「そんときゃお前の覚悟をきちんと聞きだして、おれの子供でも抱かせてやるよ」
 兄とあの優しげな風貌の彼女さんから生まれる子供は大層可愛らしいだろう。
 兄と二人だけの団欒はそうして続き、兄が洗い物をする間に私はお風呂へと入った。
 洗い物くらいいつもしているのだからすると言うのに、断固として兄が受け入れてくれた事はない。俺がいるときは俺がやるのだと、頑なだ。
 明日からまた一週間くらい会えない日が続くのかと思うと、少し寂しい。
 口うるさい兄だけれど、こうして迎えてくれる日があることは、とても心地よくて嬉しくて。
 愛されているのだな、と思う。
 子供の時は兄と結婚するとかなんとか言っていた時期があるというのは、まぁ穴に埋めてしまいたいような過去だけれど、いまではそれを笑い話で話せる良い関係だ。
 母とはなかなか一緒に過ごす機会はないけれど、一ヶ月に一回ほど休日が重なるのでそのときは母子二人でケーキをつくり、兄の帰宅を待つ。
 母も私も料理上手というわけではない。だから到底兄の作るものに勝てる事などないのだけれど、二人で頑張って作ったケーキを兄はきちんと食べてくれるし、次回のアドバイスもしてくれる。
 三人で囲む食卓は兄と二人の食卓よりさらに楽しいものとなるのだ。

「じゃぁ、もう寝るから」
 明日は休日だけれども、兄は朝早くから仕込みがあるだろうし、付き合わせるのも悪いと思ってさっさとTVから引き上げる。
 髪の毛をタオルで拭いていた兄は、おやすみ、と手を振ってソファに座った。

 スリッパが立てる音を響かせながら階段を上り自室へ向かう。無駄に広い家の豪華な階段とそれを照らす電球。ぐるりと螺旋状になった階段を上りしばらく廊下を進めば私の部屋だ。
 ろくでもない父親がのこしたこの家だけれど、雨風を凌ぐのに役に立つしキッチンの設備は兄の注文通りで、兄も嬉しそうだから、そこだけは唯一父に感謝する。
 机に向かい少しだけ明日の予習をした後、電気を消して携帯のアラームと目覚まし時計の二重装備を確認した後、布団へもぐった。

 静まり返る部屋の中で目を瞑ると、心に刻み付けた先生の音が蘇ってくる。
 放課後の夕焼けの中で、広い音楽室にポツリと置かれたグランドピアノ。
 先生がその椅子に長い足を折ってゆっくりと座る。
 キシッと椅子が若干声を上げて、先生はそのままスッと鍵盤へ手を乗せて足はペダルの上へ。
 何も置かれていない譜面台をじっと見た後、小さく息を吸い込んで弾き出される一音。
 そして後から後から続いていく、音、音、音。
 折り重なって積み重なって、響きあって、生まれていく音達。
 空気を震わせ私の耳まで入るその一瞬の出来事がまるで草原を駆ける風のように思える。

 ただの音楽室ではなく、そこは夕日を一望できる広大な草原で。
 そこで私は背の高い草にまぎれて、ひっそりと先生の生み出す音を聞くのだ。

 演奏を終えた先生は、徐に立ち上がりそして私がいない方向へ向かって歩き出す。
 まって、と声をかけたいのに声が出ない。きっとこれが夢だからだ。
 どんどん、どんどん、先生の背中は小さくなって緑に埋もれて行って。

 あぁ、また背中にとどかない。

 伸ばした手を胸に抱いて私はただただ草原に立ち尽くしていた。




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